(一) あの時代は終わった
私は既に数年も前に古稀の年を越した者である。人生の締め括りでも始めてはどうかと自問自答することがここ二・三年来よくあることだ。一老翁とはいえ、まだ元気で生きている私にとっては少々縁起の悪い話のようにきこえるようだが、いずれあの世に行く時点で、「囁光g」という者は、一体、どんな人間で、何をこの世に貢献したのかという最終的判断、裁定は若輩や後人に譲ることになる。そして、このことは、ある特定の歴史時代に対しても同様のことが言えるであろう。
むろん、それよりもむしろ、七、八十年も、この世に生を享けてきた一介の凡人としての自分が経験してきたこと、特に中日両国間に嘗つて起った諸々の事情をかえりみて、それに対する私を含む人々の喜怒哀楽は何か、そこから汲みとるべき教訓と生かすべき経験は何か、そして、それ等を踏まえて今後期待できることは何かという個人的で未熟な考えと意見を述べさせてもらうことこそが、後世に遺す最も良い「総括」であり、それが我が母校、一橋大の十二月クラブの「卒業五十周年」に贈るささやかなプレゼントではないかと思う。
私は湘閥(湖南省の財閥)の末喬として裕福な家庭に生れた。私の祖母は清朝末期の総理大臣にもなった曾国藩の娘であった。そういう家庭とのかかわりがあるので、私の実家もいうまでもなく地主資本家、そして現代の大陸の史学、経済学ではそれらをひっくるめて「搾取階級」と称された類のものである。こういうたぐいの階級は、かつて歴史をほんろうしたし、またほんろうされるのであるが、特に私はこれが顕著者だともいえよう。私は、太平の時代に生きた時期よりも、混迷且つ揺れの多い時代を生きぬいた時期のほうが長いのである。上述のような家庭出身である私が、上述のような時代に生れ、そして人生の道を今日まで歩んできたので、私の人生は、その時代と同じように「波欄に富んだ一生」であったことは論を俟ないのである。
私は、一九三六年四月に、今の一橋大の前身である東京商科大学予科に入学した。俗にいわれるように「袖触れあうも他生の縁」、ここで初めて磯村玉三、松野輝夫、福田菊太郎という同クラスの諸賢とめぐりあうことができた。
この三名の畏友からは、幾多の支援、心配りなどを頂き、いまだに日本の風習にも慣れず、日本語も不自由だった私を導いてくれた。そのときの光景は、今でも歴然と記憶に刻み込まれている。一人で下宿していた私がある日突然急性肺炎に罹り、周囲には身寄りがなく、しかもボンボンで育った当時の私なので、そして、なにしろ、医学が現在ほど発達していない当時のことであるだけに、肺炎はいわば今の肺ガンのようなものであった。運が悪ければこのまま国と家族に遠く離れた異国他郷で他界するのではないかとすら一度ならず考えたことであった。幸いにして上述諸兄が、早速順天堂病院に入院の手続をとってくれ、日夜欠かさず介護してくだされ、一命をとりとめたわけである。もしあの時までに三君にお逢いできなかったら、どうなっていただろうと、いまでもよく自分に問いきかせるのである。
一九三七年に日本をあとにしてから一九八三年同窓旧友と文通を交せるようになるまでの四十六年にわたる長き期間は、日本も中国も正に激動の時代であった。ここで、私は特筆すべき人物のことを披露せずにはおられない。
同窓諸兄との四十余年の長きにわたる消息断絶状態にあって、一抹の希望の光を注いでくれたのが、当時新日鉄の技術者として上海宝山製鉄所の建設に献身され、多大な功績を残された飯田保氏である。このはてしないとも言える空間と、半世紀もの時間に、音沙汰のかけ橋を架設してくれたのが同氏である。
正しく中国のことわざにあるように、これは「海底撈針」(海底から一本の針をさがし、それをすくいあげること)のごとき至難のわざであったことはいうまでもない。だが飯田氏は労苦をいとわず、八方手を尽し、一橋大とその前身である東京商大の当時の卒業生リストから調査することを思いつき、多くの図書館や如水会大阪支部を訪ねられ、当時、その後の私の足跡を追っておられた中村達夫君と連絡がとれ、母校及び同窓諸賢ともやっと旧交を温める絆が、再び繋がれたわけである。
ニチベイ興産鰍フ社長を勤めておられた中村達夫君はご多忙のなか、早速にわざわざ上海の我が家にまでお越し頂き、往時はさっそうとした姿の少年同士が、ほぼ半世紀ぶりに、なんと銀髪姿で再会の喜びを頒ち合ったのである。これが人生のさだめというものであろう。
しかし、それにしても人間同士の殺しあいである戦争というものが、数え切れない夥しい人々にもたらした悲劇のひとこまであったことには違いない。私は今程、戦争の愚かしさ、人間の業(ごう)、人生のよろこびと偶然の面白さとを痛感していることはない。
今日の世界は、人類はもう既に宇宙時代に突入した。科学は既に、人類が何百年も前から抱いていた夢を実現してくれたし、これからも高度な文明と驚異の世界へと導いてくれるに相違ない。人類はケダモノのような人間同士の殺戮を止め、一日も早く共存共栄の恒久平和を保てる機構を築き上げねばならない。そのためには、その要(かなめ)となる中日友好のために、私は老骨弱身を挺しても余命を捧げたい所存である。
(二) 日中不再戦
杭州に「日中不再戦」と刻まれた石碑が建てられている。わずか五字で綴ったものだが、それに含まれている意義の重みは計り知れないほどあるということを、私はここを訪れるたびに肌をもって感じる。中日両国人民は本当に同文同種かは論外として、歴史的文化的繋がりは二千六百年前まで遡ることができる。これからお互いに仲良く付き合って行き、共栄の道をともに歩むことが最も大事なことだとつくづく思う。
私は親日派でも親米派でもない。私は親中派であり、また愛日派でもある。というのは神が人類や各国にあたえた時間は一律平等である。戦争から今日に至るまで、四十五年も過ぎ去った。だが中日両国の経済的復興ぶりとその発展ぶりを比較すると、私は赤面せざるをえない。四十五年という神がそれこそ一日、一時間たりとも差別をつけずに、公正、平等にあたえてくれた同一年月と時間内に、日本は史上前例を見ないめざましい発展を遂げ、世界を驚かせた。
中国は何百年ほど前に既に羅針盤、火薬、造紙、印刷術という四大発明で人類に貢献したといって驕りたかぶっていては、ただただ落伍を招くだけである。私の言いたいことは確かに中国は五千年にもわたる悠久な歴史と文化を有する偉大な古国であることは間違いない。四大発明も、われわれの先祖が創った輝かしい成果である。だが、いつまでも垂直的に過ぎ去った後方を振り返っていれば、先が遠く見えないではないか。つまり何十年来われわれは垂直的に自分の国の特定したある歴史的段階を基準として現段階の発展ぶりを誇らしげに語りつづけてきた。これでは駄目だ。これからは水平的にものを見、発想を拡げなければならないのではないか。
(三) これから進むべき道
かつての大英帝国のユニオンジャックは世界中のほとんどの土地に高々とひるがえっていて、「太陽の沈まぬ旗」と称されていた。
当時は大英帝国の最盛期であったが、今は昔である。だが、経済大国の日本はいまやその洪水の如き品質の良い商品をもってあのユニオンジャックに取って代わっている。
中日両国間の関係は欧米外国との関係とは一味ちがったものがある。それは歴史的、文化的な連繋に由来するものである。二十世紀最後の十年間の中日友好交流は相互協力と相互繁栄の道を辿り、二十一世紀のさらなる提携の道を開くものと確信するものである。
一橋大十二月クラブ会員の卒業五十周年にあたり、同会員及び一橋大の後輩諸賢に知って頂き、力になって頂きたいことは、二十一世紀は太平洋の時代であり、特にアジアの時代であるということである。その中で中日両国の担う責務は重大なものである。日本は工業化された先進的経済大国でありながら、資源には乏しい。
中国は広大な土地、豊富な資源と十二億の人口をかかえた発展途上国である。この両大国がお互いに手を携え、互いに補充しあいながら、それぞれ自国の発展と人民生活の向上に寄与する。一方、アジアの貧困な国々を援助することにもやぶさかでないだろう。発展途上国は前後あいまって必ず工業化の道を歩み始めるだろう。それには資金と技術という肝心な問題にぶつかるし、環境問題もそれに付きまとうであろう。それらの問題を余裕をもって解決できる国としてまず日本があげられる。
私たちはもう高齢であり、先もそう長くないのである。従って自分の手でやり遂げられなかった事業を私たちの子孫に委せ、若世代に中日両国の子々孫々に至る友好関係を末永く続けてもらいたいものである。
「任重く道遠し」中日両国の若者たちの双肩にのしかかっている重荷とその長き道のりをこの一句に現わし激励したい気持である。
江戸曾為客 |
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江戸にて曾て客と為し |
相逢毎酔還 |
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相逢ふ毎に酔ひて還る |
浮雲.一別後 |
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浮雲一別後(ふうんいちべつご) |
神馳向東天 |
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東天に向きて神馳(しんち)す |
旧夢重温日 |
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旧夢重温(きゅうむじゅうおん)の日 |
流水五十年 |
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流水五十年 |
歓笑情如昔 |
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歓笑の情昔の如く |
蕭疏髪已斑 |
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蕭疏(しょうそう)たる髪も已(すで)に
斑(まだら)となりぬ |
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資料:東京商科大学卒業50周年記念文集「波濤第二」
十二月クラブ編
(下線、太字、文責、小芝 繁) |
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